季節のお荘厳

HOME > 季節のお荘厳 > お精進 その1

お精進 その1

«季節のお荘厳一覧へ

そもそも魚肉の肉類を食さないという精進のルーツは、仏教の不殺生戒、いわゆる戒律から生まれたものであると考えられます。お釈迦様は、悟りへ至るために行ってはならないこととして、様々な戒律を定められました。在家信者が守るべき一番基本的な五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)から、出家者が守るべき具足戒(二五〇戒)を超える戒律もあります。この五戒の第一は不殺生戒で、人間の生命を保つ最小限以外の不要な殺生を禁止されています。「いのち」を最も大切に考える仏教の面目がここにあるように思います。生きとし生けるものにとって「いのち」を奪われることは最も辛いことであります。だからこそ、相手が最も辛いと思うことを行わない、させない、という慈悲の精神の実践が不殺生戒を守るということになりましょう。そしてこの不殺生戒は、「魚肉の肉類を食せず菜食をもってすること」と解釈さるようになり、仏道修行者の食事は、酒類は勿論のこと、肉類を断ち菜食を基本とされていました。在家出家を問わず、仏道に入った者はまずこの不殺生戒を守らなければならなかったのであります。

さて、一方「精進」とは「勇敢にして諸々の善法を通修する」(望月仏教大辞典)意でありますが、この仏道修行を専心に励むことを意味する「精進」と、「不殺生」とがやがて同一視されるようになったようであります。つまり、肉類を食さず菜食を専らにすることは努力・辛抱が必要でありますから、精進の本来の意味である仏道修行を励み努力することが転じられて、菜食で辛抱することを精進と考えられるようになったのであります。

中国の後漢の時代には「精進潔斎」という言葉が用いられ、この潔斎は飲食に制約を加える意味ですので、精進を食事の制約と捉えていたと窺うことが出来ます。日本でも源氏物語に「御嶽精進(みたけそうじ)」という言葉が出ており、それについて御嶽神社の解説には「精進期間中は男女同きんを禁じ、 五辛(にんにく・らっきょう・ねぎ・ひる・にら)と魚鳥の食用禁止等かなり厳しい潔斎がおこなわれていたものである」とあります。この頃には「精進」=「肉類を食さない」という解釈が行われていました。

さて私たちの浄土真宗では、阿弥陀如来のお呼び声と知らされ称える念仏一つで往生が定まるのでありますから、専心に励むという意味の「精進」も、肉類を食さないという「精進」も、自身の往生のためには意味がありません。つまり、「精進」という努力は自身の浄土往生の手立てにはならないということであります。
親鸞聖人は『教行信証』に善導大師の『観経疏』の次の御文「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」を読み替えられ、「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、…  」とされました。善導大師は、「仏道修行者たる者は、心の中に嘘、偽りの心を持たず、専心に精進すべきである。」ことを勧められていますが、親鸞聖人はその御文を「人間の心の奥底を見つめてみると、そこには嘘、偽りが渦まいている。だからことさら専心に精進する姿を見せても、それも偽りとなる。」と見抜かれたのでありました。
さて次回は、阿弥陀如来の智慧に照らし出され、浮かび上がる自己の本当の姿を受け入れられた所に広がる親鸞聖人の豊かなお心を紹介させていただきます。