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摩尼宝珠(まにほうしゅ)

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橋の欄干には、玉葱のような形をした擬宝珠(ぎぼし)と呼ばれる飾りがあります。また、お堂の屋根の上や、五重塔の先端にも同じような形をした宝珠(ほうしゅ)が飾られているのをよく見かけます。今回はこの宝珠のお話です。

この宝珠は、摩尼宝珠とも如意宝珠とも呼ばれ、「意のままに様々な願いをかなえる宝」として、如意輪観音や地蔵菩薩がその手上に載せておられ、龍もしばしばその珠を持っているところを見かけます。また、『観無量寿経』には「一々の葉〔蓮華〕のあひだにおのおの百億の摩尼珠王〔宝珠〕ありて、もつて映飾〔うつり合う〕とす。」とありまして、その一つ一つの摩尼宝珠からは千の光明が放たれ、その光は天蓋〔傘状の仏具〕のように七宝に輝きあまねく地上を覆うのです。それで本願寺や中央仏教学院等の阿弥陀如来の台座には、蓮台から延びた柄の先に摩尼宝珠が飾られているのです。(写真参照)

浄土真宗の勤行でよくお勤めする『讃仏偈』には「光顔巍々として、威神極まりなし。かくのごときの焔明(えんみょう)、ともに等しきものなし。日・月・摩尼珠光の焔耀(えんよう)も、みなことごとく隠蔽(おんぺい)せられて、なほ聚墨(じゅもく)のごとし。」とあります。世自在王仏〔法蔵菩薩の師仏〕のお顔の輝きは、日や月、摩尼(宝)珠の輝きよりも超え勝れ、それらの輝きはもはや墨の如くでありますと、師仏を讃えられます。太陽、月と並んで摩尼珠は光り輝く珠として経典等にしばしば出てきます。

七高僧のお一人である曇鸞大師は、その著『浄土論註』に摩尼宝珠の徳を次のように解説されています。
諸仏が涅槃に入られるとき、衆生を救うために仏の砕身舎利〔分骨〕を留めて衆生に与えられました。衆生の福が尽きると、舎利は摩尼如意宝珠に変じます。この珠は、衆生が衣服や飲食、灯明や楽器類を欲すれば、たちまち願いのごとく種々のものを雨(あめふ)らせ衆生の願いを満たします。彼の安楽仏土〔極楽浄土〕のもこれと同じ様な徳があるのです。

浄摩尼珠を濁水の中に置けば水は清浄となるように、もし人が無量の罪濁にあったとしても、無上清浄の宝珠に譬えられる阿弥陀如来の名号を聞いて、これを濁心に投げ入れれば、罪滅して心は清まり往生を得るのです。        以上意訳

仏の舎利は衆生が苦悩にあるとき摩尼宝珠に変わり、衆生の願いを満たしてくれるのです。しかしそれは単に凡夫の勝手な願いを叶えてくれるのではありません。濁った水の中に摩尼宝珠を入れると清らかな水に変わるように、自分勝手な煩悩にまみれた私の心の中に摩尼宝珠が入ると、その珠の力で心が浄められ、妬む心、恨む心など煩悩にまみれた心を恥じるようになり、今まで願いもしなかった浄土へ生まれたいと願い、成仏への道を歩もうとする心が育まれるのです。それが衆生の願いを満たしてくれるということであります。
そしてこの摩尼宝珠は、阿弥陀如の名号の徳の譬えとして示されているのでありました。つまり、私たちが称えるお念仏には、自身が過去より作り続けてきた罪障を滅する功徳があり、浄土を願い仏道を歩もうとする心を育む働きがあるということです。

御厨子(親鸞聖人を御安置)の屋根の上には宝珠が飾られています。迷いから迷いへと繰り返す輪廻から解脱するすべを知らず、罪を作り続けている私たちです。その有様を悲しまれる親鸞聖人の舎利(遺骨)は、光り輝く摩尼宝珠となり、名号となって今私の所へ届いてくださっているのです。私たちの無明の闇を破ってくださっているのです。そのような意味が、あの御厨子の上の飾られている玉葱のような宝珠にあったと味わうことができます。

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