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御伝鈔 ~選択付属~

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あちらこちらで報恩講が勤まり、日に日に寒さが深まりますと、ご本山の御正忌報恩講を想い浮かべます。一週間お勤まりになります報恩講で、特に1月13日の夕刻、寒い御堂の中でじっと聞く御伝鈔は、宗祖親鸞聖人の御一生を最も偲べる時間と言えましょう。御伝鈔は、本願寺第三代宗主覚如上人が著された宗祖ご一代記の絵巻物から、詞書(ことばがき)、つまり文章を抜き出し、上下二冊の本とされたものです。数々のエピソードがちりばめられている御伝鈔の中で、今度は第五段の「選択付属」について記します。

その粗筋は、比叡山を下り法然聖人の吉水の草庵に入られた宗祖は、ご門弟の中でも法然聖人の信頼が大変厚く、師の著である『選択本願念仏集』の書写を許された数少ない門弟の一人でいらっしゃいました。そして、その写本に法然聖人自らの筆で、内題と「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」、さらに宗祖のお名前「綽空」を書いていただかれたのでした。これだけでも大変な出来事なのですが、それだけではなく、さらに法然聖人の御影の書写を許され、その真新しい御影にまたも師の筆で、善導大師の礼讃の御文と、夢のお告げによる新しいお名前も書いていただかれたのでした。いかに、宗祖が法然聖人の信認を得ておられたことが窺えます。また宗祖ご自身も、師に騙されて地獄に落ちても後悔はしないと、法然聖人に対して命懸けの信順をしておられたのでした。

さて、宗祖の御一生の中で一番キラキラ耀いておられたであろう吉水時代は、間もなく終わりを告げ、朝廷による念仏弾圧により、承元元年(1207)師である法然聖人と共に流罪となられます。宗祖の配所は越後でありました。その時宗祖は、法然聖人より書写を許された『選択本願念仏集』、そして「法然聖人の御影」を、ご自身の生命よりも大事なものとして、お持ちになった事でありましょう。配所の越後においても、御影を掛け毎朝夕ご挨拶をなさり、毎日のように『選択本願念仏集』をご覧になっておられたであろうと思います。師とお別れになっても、その御恩徳を片時も忘れること無く暮らしておられた宗祖のもとへ、建暦2年(1212)、宗祖40才の時、法然聖人ご遷化の知らせが届きます。きっと再会を夢見ておられた宗祖にとって、その受け入れがたい知らせは、筆舌に尽くしがたい悲しみであり、法然聖人の御影の前で号泣されているお姿を想い浮かべずにはおれません。

高田派の伝承『親鸞聖人正当伝』には(親鸞聖人が)上野国四辻ト云所ニ到テ、空師ハ正月上旬ヨリ御異例ニテ、同二十五日入滅ノ由タシカニ聞キタマヒ、今マテ鉄石タル御心モ忽チニ弱ク悶絶胸痛シ。道衢ニタホレ伏シテ、血涙シタマフ。其所ヲ今ニ血辻ト名ク。とありまして、今まで鉄や石のようにかたいお心を持っておられた親鸞聖人が、悶絶し、胸痛く道ばたに血涙されたと記されています。そして晩年に京都へ戻られてからは、次のような記述があります。
覚如上人の『拾遺古徳伝』にはコノトキ先師聖人没後中陰追善ニモレタルコトウラミナリトテ、ソノ聖忌ヲムカフ  ルコトニ、声明ノ宗匠ヲ屈シ、緇徒(しだ)ノ禅襟(ぜんきん)ヲトトノヘテ、月  々四日四夜礼讃念仏トリヲコナハレケリ。とありまして、法然聖人の毎月25日の御命日には、聲明の専門家を呼ばれ4日間『礼讃念仏』をお勤めされたとあり、宗祖が如何に法然聖人を慕っておられたかが窺えます。

宗祖29歳から35歳までの6年間は、宗祖の御一生の中で、まさに春に数々の生命が芽吹くような感動的で耀いておられた時期でありましょう。この『選択付属』に記された一連の出来事、それに続く『信行両座』や『信心諍論』は、まさしくそれを裏付けるものでありました。

godensho

『選択付属』